恋愛教とか非モテとか

いつも興味深く読ませていただいているid:Masao_hateさんの日記について思うこと


まず、付き合いのある友達数人とのある出来事についての話をする。
彼らは所謂、「いつでも誰かしらと交際している状態でいるべき」
「彼女が居ない状況=悪いこと」といった考えを持つ恋愛教の人々だ。
僕は彼らは決して悪い連中ではないと思っているが
それでも彼らの恋愛話に付き合うのはとても辛い。
無意識のラブハラスメントというやつだ。
まだ電波男など世に出ていなかった頃合に
僕はそんな友人達との席で非モテ告白(なんていうとちょっと大袈裟だが)をしたことがある。
「お前最近(恋愛とか)どうなの?」という質問に対して
本音で「女とのコミュニケーションのやり方だの、ファッションだの、デートスポットだの
いちいち調べるのはめんどくさいし、俺はキモくて相手にされなくて、もう実りがないから
お前等恋愛教の土俵から降りたい。そんなのはやりたい奴だけやればいい。やりたくない奴は
降りて趣味を楽しんだりして人生過ごせばいいじゃん」みたいな
主張を返した。当たり前というか予想通りというかやはり
「それ、かっこつけたいだけでしょ?w」とか「ギャグで言ってるんだよね?そんなのありえないw」というような
反応が返ってきて、とてもわかりあえそうにない。すごい徒労感だけが残りました。
以後その告白は「無かった事」にされたままである。
そこそこ付き合いの長い友人達なので恋愛教と非モテであってもちゃんと話せばわかると思っていただけに
とても悔しいというか悲しいというか虚しいというかとにかく不全感だけが残った。

今まで学校の教室で、大学の構内で、バイト先で職場でキモイと言われつづけて、それに耐える日常を過ごしてきた
非モテ達が、電波男の「お前等をさんざんコケにしてきた恋愛資本主義ももうガタガタなんだぜ!
負け犬女m9(^Д^)プギャー!」という主張に啓発されて言葉を得た。
言葉を得たことで「恋愛できないやつ=出来損ないの人間」という図式の中を諦念と恨みと共に生きてきた非モテ達は
「三次元で恋愛できなくて何が悪い!お前は電通の手先か!」と居直ることを覚え、恋愛教の人々と
同等の自尊心(根拠の有無、良し悪しは別として)を獲得するに至ったわけである。しかしそこでMasao氏は

「恋愛教」を抜け出して、「電波男教」を立ち上げるのもいいだろう。
でもなぁ、そこで「恋愛教」を敵に仕立て上げちゃいかんよ。価値観の違う他者を叩いて自分たちの集団の団結を図り、安心を得る。あんたらが嫌う「恋愛教」信者と同じやり方じゃないか。

と恋愛教を指弾する電波男教に対して、お前等が汚いと嫌う恋愛教と同じじゃないかと非難する。
僕にはMasao氏がこう言いたくなる気持ちはとてもよくわかる。
攻撃し合う必要なんかないじゃないか、お互いを認めて平和に生きたいじゃん。恋愛教が嫌ならヤツラより大人になれよ。
攻撃して喜んで満足してんじゃねえよ。そんなのただのマスターベーションじゃん。というわけである。
僕も上に書いたように恋愛教の人間と相互理解を試みてしまうような人間であるからしてよくわかる。
僕もおおいに賛成したいところなのだ。

しかし、残念ながらこの主張には欠陥があって有効性に疑いがある。
それは「なぜ恋愛教が嫌ならヤツラより大人にならなければならないのか」という問いに回答できないという点だ。
中立の立場から一見すると恋愛教と電波男教の叩き合いは不毛なだけだ。
終わらない戦争は客観的に見てしまえばとても不毛で不幸な状況下と思える、が
非モテの立場で見てみると、不幸なんだけど実はこれって結構楽しいじゃん?っていう感受性がありえてしまう。
非モテが「恋愛教を攻撃することは不毛だ。やめよう」と悟りを開いたところで恋愛教が
非モテをキモいと罵り差別することは不毛だ。やめよう」と理解を示し、平和な世界が訪れるなどとは到底思えない。
それならば、恋愛教を攻撃するというマスターベーションを続けて不幸でありながらもそれなりに楽しいという時間を
続けていくうちに人生が終わる。そういう生き方を肯定する価値観が生まれてしまう。
どうして俺達だけ大人にならなきゃいけないのか?というわけである。
恋愛教の側から見ても恐らく同じである、「見てて不愉快なキモい非モテを攻撃するのはやめよう」と大人になってみたところで
何か幸せなことがあるのか?どうせないならば…という話だろう。
僕はこういう生き方で生きてしまうのは大人からして自分が既得権益の甘い汁を吸えれば後は野となれ山となれ
という生き方な今の日本ではある程度しょうがないと思ってるし、そういう生き方をするのを
「大人になれよ!」と「大人」の立場から叱ることで、大人になろうという動機付けを与えるのは
難しいと思う。対案が思い浮かばないのが本当に心苦しいが、対立をやめようという動機付けをするためには
今とは違うやり方が必要なのではないかと思う。